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1958年  9月  東京都江戸川区に生まれる

           丸々太っていて、知り合いの魚屋さんから『若秩父』(当時活躍したまん丸顔
           の相撲取り)と呼ばれていたそうです。                                                                                                               


1964年 3月  私立ひかり幼稚園卒園

           いまでも覚えているのは、同じ幼稚園の友人とちょっと遠くまで遊びに行っ
           て、先生にこっぴどく怒られたことと、水が怖かったので、プールの時間に
           プールにに入れず、昆虫が好きで、虫取りをして遊んでたことです。


1971年 3月  江戸川区立西一之江小学校卒業

           めんこにビー玉、ベーゴマに野球(三角ベース)と、なにしろ良く遊び、
           良く食べ、良く寝たな〜。大人に会うと毎度『大きくなったね〜』を連発され
                      てました。大人への褒め言葉?が『変わらないね〜』なら、子供へのそれは
           やっぱり、『ちょっと見ないうちに大きくなったね〜』ですよね。ピーク時は
                      1学期(約3ヶ月)で5cm程度身長が伸びてましたから、出会った大人も
                      『あらま、ビックリ!』って感じだったんでしょうね。今になってその事が
                      よくわかります。1970年(昭和45年)、大阪万博には行けませんでしたが、
           祖母の家を建替えて、そこへ移ったことは嬉しい出来事でした。

           
1974年 3月  江戸川区立松江第5中学校卒業

           3年間くそ真面目な優等生で通しましたが、何か置き忘れているような、
           これが本来の自分の姿なのか、と疑問を抱きながら過ごしていたようです。
           本当は女の子に興味津々なのに、興味がないフリをしたりして…。ですから
           まともに彼女と付き合うことなどなく、中学生活を終えてしまいました。
           中学2年当時だったでしょうか。NHKで放映されていた大河ドラマ
           『国盗り物語』の斉藤道三と織田信長の生き方に痛く感動し、
           “僕もこうなりたい”と思ったものです。
           また、あのオープニングの音楽もたまらなく好きでしたね。
           今でも思い起こすと“血沸き、肉踊る”感じがします。(いい年して…)
           この頃から、自分の内なる声と対話し、葛藤していたのでしょうか。
                      
1977年  3月  都立両国高校卒業

          中学校までは勉学に、スポーツに、ある程度目立つ存在であったと自分で
           は思っているのですが、当時学校群制度を採っていた都立高校では、
           それなりに似通ったレベルの人たちが集うので(ま、どの高校でもそうで
           しょうけどね)、全く目立たない存在になってしまったようです。
           人間力不足だったのでしょうか?一番目立つちょっと不良っぽいグループ、                                                                                                      
           知的だけれど、ユーモアもあり、楽しげなグループ等、魅力的な集団が
           ありましたが、どこにも所属できず、孤独感を募らせていったようです。
           ここでも自身の内なる声と対話をしたのでしょうか。2年生の夏に、中学校
           時代の不良グループのリーダー的存在であったK君と無性に会いたくなり、
           自分から連絡をとって、夏休みの盆踊り?が開催されていた神社の境内で
           再会を果たしたのでした。それからというもの、瞬く間に、そう、よく言う、
           スポンジが水を吸い上げるように、K君グループの色に染まっていった私
           でした。今、思えば、この時、やっと心が開放されたというか、魂がはじけた
           というか、自身の新境地に毎日ワクワクの私でした。ただ、私の急激な変化
           で親にはずいぶんと心配をかけてしまったようです。
           当時、久々に出会った中学校時代の同級生に「タコはKのマネしてる
           だけじゃないか」(タコは当時の私の愛称です…トホホ)と言われたことは、
           グサッときましたね。ま、今では最初はマネからでもいいんじゃない。後から
           個性出してけば…、位に考えてますけど。
           3年になって、夏?頃の実力テストで、300数十人中の300数番まで落ちた
           ことに焦り、遊びを一旦中止して、受験体制に入りました。不良仲間も、
           あまり声掛けせずに協力してくれたようです。
           あの頃の集中力、今も欲しいです。

          
1981年  3月  千葉大学人文学部卒業

          何とか国立の大学に滑り込みましたが、「大学は遊ぶ所?」と、大いなる
           勘違いをしていた私でした。現在でも大きく変わっていない日本の受験体制
           に問題があるんだ〜などというつもりは、少ししかありません(笑)が、
           何せ開放感でいっぱいの私でした。
           当時の18歳の若者の一番欲しい物といったら、やはり“車”でしょう。
           というわけで1年生の前半は運転免許と車の取得に忙しい私でした。
           ところで余談ですが、現代の若者の車離れ現象は全く想定外(?)ですね。
           やはり、遊びの選択肢が増えたということなんでしょうか?                                                                                                                                           
           一軒あたりの車の保有台数が増えたことも関係しているでしょうか?
           また、近年の環境ブーム?も影響しているんでしょうか?はたまた
           税金ばかり徴収する今の税制がいけないんでしょうか?
           話を元に戻します。当時私共仲間の間で“車”と言えば、DOHCエンジンと
           ソレックスのツインキャブレター搭載のものしか、考えられませんでしたね。
           その条件を満たす最も安い車、トヨタマークⅡ1900GSSを祖母の金銭的
           バックアップのもと、入手し、それを少しでも見栄え良くするために、バイト
           に精を出した1年生後半と2年生時代でありました。
           1978年9月15日の敬老の日は小雨の降る祝日でした。私が妹から紹介 
           してもらった彼女といそいそデートしている時に、当時我々が毎日のように
           見ていたホリデーオートという車雑誌の“売りたし、買いたし”欄で見つけ、
           やっとの思いで入手したセリカLB1600GTを繰り、我が家へやって来た
           友人が、私が留守だということで引き返す途中に、人身事故を起こして
           しまったことは慙愧の念に耐えません。任意保険未加入で、その後の
           賠償に友人一家が苦労したことを、今でも懇意にしてもらっている友人の
           母上から後に聞き及び、当時何の力にもなれず、のほほんと学生生活を
           送っていた自身を情けなく思ったものでした。ただ、現在家族を持ち、それ
           なりの会社に勤め、家も購入し、趣味を楽しんでいる友人を見るにつけ、
           事故当時変に同情せず、普通に接していた私も、それでよかったのかな…
           (凄いこじつけ…)などと、勝手に思っております。
           こんな生活をしておりましたので、たまに大学へ行っても、顔は分かるが
           名前はわからん、というひとばかりで、高校時代とは違う意味で、やはり
           浮いた存在だったような気がします。
           しかし3年生にもなると、特定の教授について卒論に向けて?勉強していく
           ゼミ活動なるものが始まり、私もどこかへ所属せねばならない状況でした
           ので、就職に最も強いといわれる教授のもとへはせ参じたのでした。
           私の目には、聖心女子大卒の秘書の運転で、ベンツに乗って大学に
           やって来るその教授は、わが大学では異質な存在に見えましたが、
           反面頼りがいのある人にも写っていました。
しかし、その教授が私共が
           4年生になる前に亡くなってしまったのは、当時の私にとって晴天の霹靂?
           でした。その後を引き継いだ当時助手待遇の先生の指導で、ゼミ活動を
           続けましたが、その方が若かったと言うこともあり、友達感覚で、酒飲みに、
           ゼミ合宿に、スポーツにと、今思えば楽しく過ごさせていただいたと、感謝
           する次第です。ただ、いまだに卒論を完成させていないと言う事実は、ここ
           だけの話にしておきましょう。いずれ、今興味を持っている、“潜在意識と
           共時性”と言うことについての研究を提出するかもしれません。
           就職が決まった後で、大学事務局から、取得単位不足で卒業できない…
           などと、連絡を受けた私ですが、どうにかこうにか無事卒業までこぎつけた
           たのでした。
  

        
1981年  4月   日産自動車入社

                     当時はまだいわゆる重厚長大産業が幅を利かせていましたし、私自身も
           人気があった商社・銀行・マスコミなどには興味がなかったものですから、
           大手自動車会社や、鉄鋼会社や、いわゆる〜重工などと呼ばれる会社を
           訪問しました。特に我が大学はトヨタとの繋がりが希薄なようでしたので、
           先鞭をつけようとトヨタにも挑んだのですが、日産に訪問した時の先輩方の
           暖かな対応に触れ、それにほだされたと申しますか、やはり、先輩がいる
           いないの違いは、未熟者の私にとっては大きかったようです。
           当時は入社後すぐに2ヶ月間の工場実習に出されることになっており、
           恥ずかしながら、生まれて初めて、たかだか2ヶ月ではありますが、自宅を
           あけることになったのであります。
           私は静岡県の吉原工場での実習となりました。8畳?一間に2人ずつ
           と、今では考えられない?部屋割りでした。その時同部屋だったI氏とは、
           今でも極たまに会う機会があり、出会いとは不思議なものだな〜と今更
           ながら思います。I氏は優秀で日産退社後現在3社目の会社で、その能力
           遺憾なく発揮しているようですが、氏の“会社が変わった”と言う通知を
           きっかけに、工場実習当時仲良くなった4人で集まる習慣?になっています
           ので、今度いつ、“会社が変わった”と言う通知がI氏から来るか、楽しみな
           私は少々不謹慎でしょうか。
                      2ヶ月の研修終了後、本社の部品事業部というところに配属されました。
           車両本体ではなく、補修部品を扱う、どちらかというと地味な部署でしたが、
           利益率が高いというのが、唯一、“うり”だったようです。
           そろそろ会社勤めにも慣れ始めた、1982年の3月に悲劇が起こりました。
           母の事故死です。妹が初めての子供を出産した直後のことでした。
           少しでも初孫の顔を見られて良かったなどと、無理に考えようとしても、
           当時23歳の私には、耐え難い悲しみと喪失感でありました。
           その悲しみを振り払うように、異性を求めたのでした。いい出会いは
           ありましたが、心に深く傷を負ってしまった私には、お相手の真心も理解
           できなかったのかも知れません。
           4年後、さらに父親の不調と姉の足の手術などが重なり、1986年5月から
           半年間休職を願い出たのでした。
           休職中にいったい何をしていたのか、記憶は定かではありませんが、姉の
           『そろそろ君も会社を辞めて店を継ぐことを考えたら』のような一言が、私を
           決心させたのでした。新たな旅立ちです。
 

          
1986年10月  日産自動車退社

          それにしても、自己都合での休職中は無給は当然としても、その間
           社会保険料などを会社に立て替えてもらっていたので、退職時は会社に
           2〜30万円の借金をしていることになっており、それを清算しなければ
           ならなかったのには、少々参りました。
           大企業と言われる会社に籍をおきますと、私のような若造であっても、
           関連会社の中年の部課長クラスが、お辞儀をして訪ねて来るのですから
           長く在籍すると、そこいら辺の感覚が麻痺してしまうでしょうね。
           そういう事態は普通ではなく、日産という大きな看板が背後にあるからだと
           いうことを、常に自身に言い聞かせておかねばなりません。
           退職して家業を継いでから、そのことが良く分かりましたが…。
                      友人の母上が、「退職おめでとう」と言ってくれたことが、記憶に残って
           います。


1986年11月  今泉商店(塗料販売・塗装工事)を継ぐ

          背にしょった大きな看板こそ失いましたが、0からのスタートというわけでは
           なかったので、何とかやってはいけました。しかし、父親との仕事の引継ぎ
           がスムーズにいかなかったので、何軒かのお得意様を失いました。一度
           失ったお客様を取り戻すのは困難なことでした。
           商品の販売だけでは厳しいので、父親同様、塗装工事の仕事も請負う
           ようになりましたが、学生時代にアルバイトで数日父親の手伝いをしただけ
           程度の塗装キャリアでは、思うに任せないところばかりでした。
           また、体調を崩していた父も他界し、店の行く末は私の双肩にかかってきた
           のでした。
           そこで、父親の塗装工事仲間の方の手伝いを始め、また、昔の悪ガキ仲間
           の1人が塗装職人をやっていましたので、自分の仕事は彼に手伝って
           もらったりして、ある程度仕事を覚えていったようです。
           父の仕事仲間の方の仕事は
当時はいわゆる“ころがし”といって、クレーン
           の部品となる大きな
鉄骨を、工場の屋外に並べて、塗装機で吹き付けて、
           乾くか乾かないうちにクレーンを使って裏返し(トンボする…と言ってました)
           また塗装機で吹き付けるという、結構荒っぽい作業が中心でした。
           屋外で機械を使ってバンバン吹き付けるわけですから、塗料は大量に消費
           するし、周囲にずいぶんと飛散したのではないかと思います。
           後で聞いたのですが、その後会社から車を汚染するので、ローラー塗装で
           やるよう依頼されたようですが、親方(父の塗装工事仲間)は、
           断ってしまったそうです。
           祖父、父に継いで3代目となったわけですが、とりあえず今までの取引先や
           ご近所からの仕事の依頼もあり、何とかやっていけるようになりました。
                             

1991年  9月   有限会社ペイントハウスいまいずみ設立
          
正直申しまして、会社組織にせねばならないほど、売上が伸びていたわけ
           ではありませんが、会社をやっている友人などから、会社組織にすれば、
           信用度が増すなどのアドバイスもあり、会社設立に踏み切りました。


           塗装工事という仕事に携わり始めた頃から感じていましたし、20年以上も
           経った今現在でも感じることは、塗装職人の皆さんは塗ることは好きです
           が、塗る前の下地処理―錆落し・ひび割れ処理・凸凹面を平滑にする処理・
           浮いた塗膜を剥がす処理など、様々ですが―は苦手、というか、好きでは
           ない人が多いのかな…という事ですね。
           まあ、ペンキを塗ってしまえばわからない、という面もありますし、あまり
           長持ちしてしまっては困る、という面もあるかもしれません。また、予算面
           もあるでしょう。
           しかし、不十分な錆落しで塗装しても、すぐに錆が浮き出てきますし、
           ひび割れの上にシーリング剤をなすりつけて、その上から塗装するだけ
           ではすぐにまたひび割れが発生してしまうのです。結局はそこでお客様の
           信頼を失うことになるだけなのです。自分で自分の首を絞めているような
           ものですね。
           またあまり長持ちされても…という発想は、これはおそらく塗装業界に
           限ったことではないでしょうが、あくまでも自分本位の発想で、顧客志向
           とは言えませんね。塗装工事と言う作業は、特にお住まいの外壁の塗装
           ともなれば、多かれ少なかれお施主様や周囲の方々に迷惑をかけること
           になります。住宅の寿命を考えると、数回の塗り替えは必要になるでしょう
           から、特に下地処理を手抜き無しにしっかりやって、長持ちさせて、1回
           でも2回でも塗装工事の回数を少なくしてさしあげる。そして、お客様や
           周囲の方々の負担を軽減して差し上げることこそ、顧客志向に適った
           考え方だと思います。塗装工事は足場架けなどの段取りも重要な要素
           ですから、塗装工事の回数が減れば、お客様の金銭的な負担も軽減
           されます。
           手抜き無しの、長持ちさせる塗装工事は、塗装回数を減らし、業界全体の
           パイを減らすことになるのでしょうか?私は、手抜き無しの工事によって、
           塗装を考えていなかった方の需要を掘り起こし、逆に業界を活性化させる
           のではないかと考えております。
           以上のような信念に基ずき、今後も塗装工事に励む所存であります。
          
           


○取得資格:危険物取扱者乙種第4類
        毒物劇物取扱者
        足場組み立て等作業主任者
        

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